April 30, 2016
世界遺産を観光する奴は恥を知れ「金儲けのためにどんどん増やされる世界遺産に、富士山も泣いている。」

illustration_Frits Ahlefeldt, Hiking.org_Creative Commons

2013年、日本人にとっては特別な意味を持つ富士山が日本で13個目の世界文化遺産に登録されました。

世界文化遺産の登録が決まると、メディアは「ついに日本の富士山が世界遺産になった、めでたい」というお祭りムード一色で、あちこちに富士山グッズが溢れて、多くの人が世界に認められた富士山をひと目見ようと、富士山を登る人たちが現在もどんどん増えています。

しかし、お気軽な観光地となった富士山には山小屋に荷物を運ぶためのブルドーザーが行き交い、山の山頂には自動販売機が設置されて、海外からの観光ツアーもどんどん組まれており、富士山は遠くから眺めれば、今も昔も美しい日本の象徴ですが、近寄って自分の足で歩いてみると、「負の遺産」のかたまりで、何千年という歳月をかけて引き継がれてきた日本の伝統が、短期的な利益のために大きく傷つけられています。(1)


↑短期的な利益のために、日本の象徴がどんどん傷つけてられていく。

様々な山の環境問題に取り組み、富士山の清掃活動も積極的に行なっている登山家の野口健さんは、富士山の世界遺産登録について次のように述べています。(2)

「たくさんの知り合いから”世界遺産おめでとうコール”がかかってきたのだ。(中略) しかし、 実はこの知らせを聞いたとき、僕はまったく嬉しくなかった。正直にいえばそれまで”今回の世界遺産登録は見送られるだろう”という、ほぼ確信に近い気持ちをもっていたからだ。 そして、富士山のためにはそのほうがいい、とも考えていた。

だからこそ、予想外の世界遺産入りで富士山がこれから迎えることになる難局が頭に浮かび、頭を抱え込みたくなったのである。」


↑野口健「富士山の世界遺産登録に頭を抱え込みたくなった。」

実際、富士山は標高3776メートルで、世界的に見れば富士山よりも高い山はいくつもあり、この高さはネパールに行けば村落があるほどの標高だと言います。

この程度の高さにも関わらず、富士山が世界的に知られているのは「高さ」ではなく、その「美しさ」であり、日本人にとって富士山は単なる山ではなく、心のよりどころでもある特別な存在であるはずです。

ところが、多くの人がアウトドア感覚で気軽に登り、観光の目玉として世界遺産という肩書を無理やりつけられた「日本の象徴」は、文化や自然よりもお金儲けを優先し、まるで富士山は長期的にどうなっていたいかを明確に示すことができない日本社会そのものを表しているようにも見えます。


↑富士山の現状は日本社会そのもの。

多くの人が未だに「富士山」単体が世界遺産に登録されたと思っているかもしれませんが、世界遺産に登録されたのは、屋久島や白神山地のような「自然遺産」としてではなく、「富士山の信仰の対象と芸術の源泉」という名称の「文化遺産」としての登録であったことはあまり知られていません。

当初、富士山は自然遺産としての登録を目指していました。ところが、2003年に日本国内の暫定リストから外されると、自然遺産がダメなら文化遺産ではどうかと、富士山をどうしても世界遺産にしたい人が登録活動を続け、10年という月日を経て2013年に文化遺産として登録されることになります。


↑屋久島のような「自然遺産」と法隆寺の「文化遺産」では、意味も考え方も全然違ってくる。

正式にユネスコに世界遺産として登録する過程では行政、広告代理店、コンサルタント会社、そしてシンクタンクなど様々な人やお金が動き、野口健氏によれば、これまでの日本の世界遺産で富士山ほど広告代理店が積極的に絡んだ登録活動はなかったと言います。(3)

企業が絡めば、そこでは利益が追求され、必ずしもそれが悪いわけではありません。だけど、よく考えてみれば、世界遺産登録の本来の目的とは観光客を呼ぶためのものではなく、遺産として未来に残していくためのものであり、ただでさえ傷めつけられている富士山に、もっと人が来てしまっては何の意味もありません。


↑世界遺産に登録されて、富士山が泣いている。

「世界遺産」という言葉は、今では小学生でも知っていますが、20〜30年前は日本人のほとんどが知らない言葉だったそうです。

2000年前後から旅行のパンフレットやテレビ番組などに「世界遺産」という言葉が現れ始め、ジャーナリストの佐滝 剛弘氏によれば、そもそも世界遺産の登録地のない台湾のツアーを除く22の掲載ツアーのうち、15のツアーは「世界遺産を周ること」が売り文句として使われ、イタリアのツアーでは「イタリア10日間世界遺産12箇所」など、ただ世界遺産を訪れることだけが目的になってしまっているものまでもあります。(4)

地球環境が問題視され、歴史ある文化や環境がどんどん失われていくなかで、価値のあるものを未来に残そうというユネスコの理念はとても素晴らしいものです。

けれども、世界遺産の現状は理想とはほど遠く、ただ観光客を増やすだけのために、そのネームバリューに乗っかろうとする人がどんどん増えてきてしまっています。


↑世界遺産「価値のあるものを未来に残すという概念からどんどんかけ離れていく。

実際、世界遺産は本来の目的から大きく外れて、世界遺産というブランドがお金を生み出し、その経済効果は誰の目に明らかになりました。

例えば、1995年に世界遺産に登録された「白川郷」がある岐阜県白川村の来訪者数は世界遺産登録後に2倍以上になり、2014年に登録された「富岡製糸場」の来訪者数も登録後に2倍以上に増え、年間の経済効果は34億円に達しました。

富士山にいたっては、世界遺産に登録されたことで観光客が前年度と比べて13.5%増加し、富士山が登録された2013年、山梨県側だけで、194億円の経済効果があったという言われています。(5)


↑白川郷「世界遺産の経済効果は計り知れない。」

ジャーナリストの佐滝 剛弘氏は、「ミシュランの3つ星」や「海外の◯◯コンクールで入賞」なども含めて、日本人が欧米諸国に比べて、世界遺産に高い関心を持ち、「国立・国定公園」や「国指定名勝」などに関心が薄いのは、鎖国を解いた日本が欧米に追いつくために努力した過程で染み付いたもの、もしくは国際的な刺激ない島国特有のものではないかと述べています。(6)

小笠原諸島に関しても、世界遺産に選ばれた理由はその地形や地質の「美しさ」ではなく、カタツムリなど、大陸から隔絶された島で独自進化した固有種が生息する小笠原の「生態系」評価されての登録でした。

もちろん、メディアは「世界遺産に選ばれた!」ということばかりを伝え、小笠原諸島の何が評価されたかを伝えることはほとんどしませんでしたが、やはりブランディングという意味で、「世界遺産」という言葉だけが一人歩きし、本来の文化や自然を守り、次の世代へ伝えていくという目的から大きくそれてしまっているのが、今の日本の現状なのかもしれません。(7)


↑小笠原諸島が世界遺産に選ばれた理由は、「美しさ」ではなく「カタツムリ」

残念ながら、世界遺産は見かけだけをブランディングする
「観光業のモンド・セレクション化」してしまい、多くの人が世界遺産を観光資源としての「格付け」制度か何かと勘違いしてしまっているようです。

ビートたけしも「こんなに世界遺産を増やしてどうするんだ」と述べた上で、次のように指摘しています。

「どう考えても観光地でカネ儲けようとしか考えられないけどな。(世界遺産を)無理に持ち上げてるような気がしてしょうがない。」


↑「世界遺産」は観光業の「モンド・セレクション」

特に富士山の世界遺産登録に至っては、登録後も問題はどんどん大きくなるばかりです。

実は富士山の世界遺産の登録は、2016年2月1日まで、登山者の受け入れ能力や、山小屋に物資運搬するためのトラクターなどが通る道の改善、そして、来訪者増加に対する環境対策などの具体的な解決策をイコモス(ユネスコに代わって世界遺産に値するかどうか審査する非政府組織)に提示しなければならないという「条件付き」の世界遺産当登録であることはほとんど知られていません。

2016年2月1日を過ぎても、何か具体的な提示があったという話しは聞きません。場合によっては、日本には富士山を独自に守っていく能力がないと判断され、世界遺産の登録を取り消される可能性すら十分にありえると言います。


↑ 富士山を独自で守っていく力がないと判断されれば、世界遺産登録は取り消し。

野口 健さんはテレビ番組で何とか、富士山の登録が「条件付き」であることを国民に解説させてくれと頼んだと言いますが、ほとんどの番組で断られ、「とにかく富士山の魅力的なところだけ話してくれ!」と言われたと、著書「世界遺産にされて富士山は泣いている」の中で述べています。

世界には、オマーン の「アラビアオリックスの保護区」 やドイツの「 ドレスデン・エルベ渓谷」のようにユネスコの勧告に応じなかったという理由で、世界遺産の登録から抹消された例もあり、もし、日本の象徴である富士山を自分たちの手で守れないなどということになれば、恐らく日本は世界の笑い者になるでしょう。


↑自分たちの象徴を自分たちで守れなければ、日本人として恥ずべきこと。

もともと日本人は、欧米人のように自然を支配するという概念がなく、海にしても、山にしても「環境」という言葉は使わず、我々は土からもらったものを食べて、土に返していると言うように、自然や環境を自分自身だと捉え、とても大事にしていたと言います。(8)

富士山にしても、昔の人は富士山が爆発しないようにと常に祈り、江戸時代に人々が富士山に登り始めた時、登ると決心してからは食べ物や飲む水の量はできるだけ控え、万が一、登っている途中で用をたす場合でも、紙を敷いて跡をきれいにし、自然への敬意を忘れることはありませんでした。


↑当たり前過ぎで、江戸時代には「環境」という言葉さえ存在しなかった。

ところが、現在では政府公認の「環境省」ができたことで、日本人は自分自身と自然を切り離して考えるようになってしまいました。

現在富士山を含めて、私たちの周りで起こっている様々な環境問題は、自然と人間との間に起こっているものではなく、文化や自然など普遍的なものに価値を置く人たちと、国益や自分たちの利益を重視する人たちの間で起こっている「人間同士」の争いのように思えます。

製造業や金融業の成長がピークを過ぎ、観光業は宇宙産業やIT産業を超えた21世紀最大の産業になると言われています。

日本には世界中から人を集め、観光立国になるための、気候、自然、文化、そして、食事のすべてが揃っているため、とにかく様々な手法を使って、世界中から人々を呼び込もうとしていますが、経済優先・国益優先のやり方を続ければ、長期的に見て、何か大切なものを見失ってしまうことに早く気づかなければなりません。


↑もう「人間vs自然」の争いではなく、「人間vs人間」の争い。

「龍馬がいく」などの著書で知られる作家の司馬遼太郎さんは、著書「21世紀に生きる君たちへ」という本の中で、昔も今、そして未来も決して変わらないことは、人間や他の動植物、さらに微生物に至るまで自然に依存して生きており、人間の上に自然という神々が存在するということが、長い歴史の中での基本的な考え方だとしています。(9)

そのため、昔の人々は自然を常に尊敬していましたが、この態度が近代や現代に入って少しずつゆらぎ始め「人間こそ、いちばんえらい存在だ」という考え方に変わってきているとした上で、司馬遼太郎さんは日本の未来の展望を次のように述べています。

「今の日本人の大多数が”合意”すべき何かがあるはずで、不用意な拡張や破壊を止めて自然を美しいものとする優しい日本に戻れば、この国に明日はある。」


↑自然を尊重する優しい日本人に戻れば、この国に未来はある。

そう言った意味で、富士山は現在の日本を分かりやすく説明してくれる「リアルタイムの教材」なのかもしれません。

イスラム過激派組織が世界遺産にも登録されているイラク北部のニムルド遺跡やシリアのパルミラ遺跡を破壊するのは、芸術や文化が資本主義経済の象徴的存在であり、アラーの神を信じて生きるイスラム原理主義者とは正反対の価値観を表しているからだと言います。(10)

理由はどうあれ、日本人が富士山という普遍的な遺産を「破壊している」ことには変わりはありませんが、司馬遼太郎さんの言葉のように今の日本人の大多数が「合意すべき何か」が、経済成長なのか、それとも自然や文化の尊重なのかで、21世紀の日本の姿は大きく変わってくるのではないでしょうか。


↑理由はどうあれ、日本人もテロリストと同じように普遍的な遺産を破壊していることには変わりない。

日本に花粉が多いのは、人工林が急激に増え、杉の成長が止まって苦しく、子孫を残すために必死に花を咲かせようとしているからではないかと指摘する人もいますし、富士山の周辺に関しても、たくさんのスキー場が夜中もライトをつけてオールナイトで営業するようになったため、夜行性のコウモリが外に出てエサを取ることができず、栄養失調で死んでしまうという話もあります。(11)

そして、莫大な被害をもたらした震災は、自然との共生関係のバランスを崩し、人間の生産性と利益を優先しようとする日本人に向けての最後の警告なのかもしれません。


↑ 明る過ぎて夜行性の動物が活動できない。

世界遺産は、ただでさえ脆い自然や文化を次の世代へ伝えるためのものであるため、富士山の観光客を増やすどころか、むしろ逆に減らしていく必要があるでしょう。

昔の日本人にしても、オーストラリアの先住民であるアボリジニにしても、富士山やエアーズロックに登って山頂で日の出を拝もうなんて考えていた人はほとんどおらず、ただ壮大な存在感に敬意を示し、遠くから拝んだと言います。

江戸時代半ばに江戸と周辺農村部によって組織化された「富士講」の一派である宍野史生さんは野口健さんに次のように話したと言います。(12)

「お頂上に上がると、日の出が目より下がる。お日さまを自分が上から 見下ろしながら拝むなんてことは絶対にしない。昔は九合五勺に最後の小屋があって、そこで拝んだ。山の上から日の出をみることを”御来光”というようになって騒ぎ出したのは、いつからか出てきた習慣か、 観光の山登りだね。信仰として登っている者はそんなことはしないよ。」


↑本当に信仰がある人は、お日さまを”見下ろし”ことなど絶対にしない。

そういった意味で、富士山は気軽に登って、フェイスブックに写真を上げるようなものではなく、イスラム信仰者が一生に一回、メッカに参拝に行くように、日本人にとって絶対的な存在でもある富士山をもっと、もっと特別なものにしていく必要があるのではないでしょうか。

長い歴史の中で、富士山という景観に込められた文学や歴史感にその時代に生きた人々が共感し、心が研ぎ澄まされることで日本人の文化が作られてきました。

その想いを次の世代に伝えようとせず、短期的な利益のために、この時代で終わらせてしまうのであれば、もう不況や多くの社会問題を超えて、ついに日本人は「踏み入れていけない領域」に足を踏み入れてようとしてしまっているのかもしれません。

野口健さんの本のタイトル通り、世界遺産に登録されて富士山が泣いています。

※今回の記事は野口健さんの
「世界遺産にされて富士山は泣いている」を参考にさせていただきました。日本人であれば、目を通しておくべき本ではないかと思います。

1.渡辺 豊博「富士山の光と影 ~傷だらけの山・富士山を、日本人は救えるのか!?」(清流出版、2014年) P48 2.野口 健「世界遺産にされて富士山は泣いている」(PHP研究所、2014年) Kindle P12 3.野口 健「世界遺産にされて富士山は泣いている」(PHP研究所、2014年) Kindle P1092 4.佐滝 剛弘「世界遺産の真実—過剰な期待、大いなる誤解」(祥伝社、2009年) P4 5.木曽 功「世界遺産ビジネス」(小学館、2015年) Kindle P366 6.佐滝 剛弘「世界遺産の真実—過剰な期待、大いなる誤解」P40 7.野口 健「世界遺産にされて富士山は泣いている」Kindle P1253 8.養老 孟司「日本のリアル 農業・漁業・林業 そして食卓を語り合う」(PHP研究所、2012年) Kindle P404 9.司馬 遼太郎「対訳 21世紀に生きる君たちへ」(朝日出版社、1999年) P8 10.山本 豊津「アートは資本主義の行方を予言する」(PHP研究所、2015年) P185 11.養老孟司、C.W.ニコル「身体を忘れた日本人」(山と渓谷社、2015年) Kindle 12.野口 健「世界遺産にされて富士山は泣いている」Kindle

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