伊勢神宮には、明るい世界(光)を象徴する太陽神のアマテラス、出雲大社には見えない世界(闇)を司るオオクニヌシを主祭神としているといったように、世の中は光と闇のバランスが上手くとれているからこそ、正常に機能していく。(1)
人工衛星から日本の街を見ると、世界でもずば抜けて、明るい光を放ち続けていることはよく知られている。
その中でも、東京は明る過ぎるとされ、真夜中だろうと、ネオン、自動販売機、車のライトなど、まさに眠らない街という異名の通り、東京の街から光が消えることはありません。
↑光と闇があるからこそ、世の中が正常に機能する。(Pic by LC)
物理的な世界だけではなく、バーチャル上の世界でも、SNSを通じて、承認欲求を満たすための光が24時間365日に放ち続けられている。
イーロン・マスクは、SNS、特にインスタグラムは人々を不幸にしていると指摘しています。
なぜなら、自身の生活の中の「光」だけを切り取り、さらに、それに加工や誇張を加えて投稿していくため、それを見る人たちは、「いいね!」を押しつつも、眩し過ぎる光が徐々に苦痛になっていくのだろう。
そう言った意味では、物理的な街や部屋の光と、SNS上で拡散される他人の光を一定の量に制御していくことが、精神状態を安定させる秘訣になっていくのかもしれない。
↑生活の中の「光」だけを切り取り、加工して誇張する。(Pic by LC)
戦後の日本においては、明るさは豊かさの象徴でした。
しかし、街が明るくなり過ぎると、僕たちは、情報収集のほとんどを目だけに頼るようになってしまうため、目で処理しなければならない情報量が多くなり過ぎてしまいます。
すると、情報処理の負担を減らすために、無意識のうちに、情報を単純化したり、切り落としたりすることで、周囲のことにどんどん鈍感になっていき、目に見えない世界(闇)は日常から姿を消していくのです。
妖怪研究家の京極夏彦さんは、ゲゲゲの鬼太郎の著者、水木しげるとの対談の中で、闇が存在せず、妖怪が住めない世界には、人間も住めないと述べている。(2)
↑街が明るくなり過ぎると目に見えない世界の文化が消えていく。(Pic by LC)
エジソンが電灯を発明するまでは、ある意味、物理的な闇と心の中の闇は、わざわざ意識して考えたりしなくても、人々の日常に当たり前に存在するものでした。
その後、文明が発達し、街から闇が消えれば、消えるほど、光と闇のバランスが崩れて、心の闇だけがどんどん深く大きくなっていっているのかもしれない。
日本でも、高級なホテルやレストランは照明が暗めになっている。きっと、余計な注意をカットして、自分の心の闇に向き合う時間こそが、現代の贅沢だということを理解しているのでしょう。
周辺が明るくなり過ぎ、様々なものが見え過ぎてことで、心が病んでしまったのであれば、部屋の明かりとSNSの明かりを落とすことで、心の病みを回復させられるのかもしれません。
Note
1.道幸 龍現『ビジネスエキスパートがこっそり力を借りている日本の神様』サンマーク出版、2019年 2.水木 しげる『水木サンと妖怪たち: 見えないけれど、そこにいる』筑摩書房、2016年
参考書籍
■村上 春樹『海辺のカフカ (上)』新潮社、2005年
Eye Catch Photo by Daniel Oberhaus_Flickr