10月8日に熊本で行われた「みずあかり祭り」に参加してきました。みずあかり祭りは熊本の資源である「竹」と「ロウソク」、そして、地域の最大の資源である人(約7000人のボランティア)によってつくられるお祭りで2004年からスタートしました。
日本にはおびただしいほどの祭りがあり、神社のものだけに限定しても、30万種類の祭り、単純計算でも400人の町内にひとつの祭りがあることになりますが、この「みずあかり祭り」が非常に興味深いのは、近年、様々な理由で使われなくなってしまった「竹」を最大限に利用して、最先端の芸術を生み出し、地域を代表する新しいお祭りを作り上げていったことです。
↑「竹」、「ロウソク」、そして、「人」と地域の資源を最大限活用して創り出したアート。
そもそも、このお祭りのメインになっている竹は、たけのこ、竹かご、竹炭、そして、竹堆肥など、昔から日本人の生活に深く関わってきた植物でした。
しかし、近年では中国産のたけのこが出回ったり、竹かごが使われなくなってしまい、竹栽培が経済として成立しなくなったことで、竹がどんどん放置されるようになってきており、植生破壊や土壌保持力低下によって土砂崩れなどが発生する「竹害」が大きな問題になってきていました。
↑竹はもの凄いスピードで成長し、竹を放置しておくと太陽の光が山の中に届かなくなる。
この問題を何とかできないかと考えた崇城大学の内丸惠一さんが中心となって、みずあかり祭りがスタートすることになるわけですが、世の中の変化で竹の需要がどれだけ少なくなろうと自然界に存在するものに無駄なものなどは一切なく、自然界に存在するものをどう正しく使ってエンターテイメントを生み出していけるかというところに、真のクリエティビティがあるのでしょう。
サクラダファミリアの建築で有名なアントニ・ガウディも、100年以上前から次の時代に生きる人達への敬意や時間軸上の順番を考慮し、偉大なる自然の摂理を邪魔しない作りを徹底していました。中でも毎日数多くの観光客が訪れるカサ・バトリョの外観を飾る破砕タイルやガラスは、地元の会社の廃棄物を譲り受けて作ったもので、100年前に“リサイクル”の概念を持っていたことがガウディの凄いところでもあります。
↑自然界に存在するものをどう正しく使うかが真のクリエティビティ。
かの二宮尊徳は「道徳なき経済は泥棒に等しく、経済がない道徳は空念仏である」と言いましたが、そういった意味でも、人と自然が共存し、道徳の概念が深く世の中に浸透していた江戸時代後期の日本の一人当たりのGDPが世界一だったという事実は十分納得がいきます。
熊本では、内丸惠一さんが竹への想いを世の中に伝えて、別の会社がその想いをしっかりと竹の芸術作品として事業化し、Mr.Childrenの「ap bank fes」での会場装飾や「坂本龍一コンサート」の舞台装飾など様々な場所でビジネスとして成立させることで、道徳と経済が上手く成り立っていると言います。
↑「想い」と「ビジネス」が絶妙に絡み合ってこそ、地域に応援させる企業になる。
近年、コンビニ、ユニクロ、アマゾン、そして、ファーストフードなど、世の中が合理化、効率化されていくことで、人々の生活がどんどん人間味のないギスギスしたものになってきているという話をよく聞きます。
実際、経営者が利益を求めるのは当然のことですし、グローバル化やIT化で競争が年々激しくなってきていることを考えれば、今後も効率化、合理化の流れは加速することが予想されますが、もし、この流れがどうしても止められないのだとしたら、経営者は徹底的に効率化することでつくりだした利益を、効率化・合理化とは正反対のお祭りや芸術に投資することで、世の中のバランスをとっていく必要があることでしょう。
そもそも、従来のお祭りとは、作物がたくさん採れるように祈る、航海の安全を祈願する、そして、疫病神を退散したりするなどいったことが目的で、昔からずっと行われてきましたが、今のところ僕たちは食べ物に困っていませんし、疫病神に取り憑かれる心配もほとんどありません。
そう言った意味で、今までのお祭りの価値観が現代の仕事や生活感覚に合わなくなってきているのであれば、街おこしや健康長寿のため、もしくは循環経済を考慮した環境イベントなど、従来のお祭りの目的を上手くシフトさせて、少しでも長くお祭りを続けていけるように色々と頭を使う必要があることでしょう。
さらには、子供もお祭りに参加させるかどうかで、地域衰退を大きく左右させるとも言われています。
↑子供が祭りに参加するかどうかで、地域の未来は確実に決まる。
日本のゴッホと呼ばれた画家の山下清は、「みんなが爆弾なんかつくらないで、きれいな花火ばかりつくっていたら、きっと戦争なんて起きなかったんだな」と言ったそうです。
チームラボやネイキッドが最新のテクノロジーでつくる芸術も素晴らしいけど、「みずあかり祭り」のように1年間かけて準備した芸術が花火のように一瞬で消えてなくなってしまうところに僕は一つのロマンを感じるし、そういったものだからこそ、わざわざ地方から足をのばす価値があるのかもしれません。
↑1年かけてつくったものが一瞬で消えてしまうというロマン。
最近の若い人たちは旅行に行く計画を立てながら、様々な旅行サイトの写真や動画を眺めているうちに、なんとなく旅行先の様子が分かってしまったので、行くのを辞めてしまったり、実際、旅行に行っても「面白しろかったけど、つまらなかった」、つまり、行ってみたけどサイトの写真、動画、そして、レビュー通りで、大して驚きがなかったと感じることも多いと言います。
そう言った意味で、どんな行事やイベントも「ただキレイだった」、「楽しかった」で終わらせてしまうのではなく、循環経済のエコの概念、都会と地方を結ぶソーシャルコミュニティの形成、または自然と最新のテクノロジーとの融合など、その背景にあるストーリーをしっかり伝えていくことが、こういった「みずあかり祭り」のような意味のあるイベントを今後も持続していくポイントになるのではないでしょうか。
↑本当の意味でのモノからコトへ。ただ、「キレイだった」、「楽しかった」というだけではなく長く行事を続けていくことはできない。
戦後復興を成し遂げ、人類史上稀に見る贅沢の限りを尽くしたバブル経済を経験しながら、バブル破壊、3.11、そして、原発と短期間でいい面も悪い面も両極端に経験した日本は世界で最も成熟した国の一つでしょう。
そして、「失われた◯◯」と言われ、自分たちの身の丈を知るという意味でもバブル破壊、3.11、原発などを経験しながら、日本は徐々に洗練された国になっていくはずでしたが、今の社会は明らかにそれは正反対の方に向かっている気がします。
そう言った意味でも、もう東京から世の中を変えようとするのは無理なのではないでしょうか。まず地方が自分たちが持っている資源と特色をこれでもかというぐらいに真剣に追求した上で、コトを起こし、さらには周りの地域と上手い接点を見つけながら大きくしていくことが大切なのではないかと思います。
そして、そこにしっかりとしたストーリーを加えてあげることが地域だけのイベントで終わらせることなく、外部の人たちを引きつけてイベントを長続きさせる要因になってくるのでしょう。
最近よく言われる、「モノからコト」というのは、多分、こうゆうことなんじゃないかな。