June 25, 2017
42歳で起業し、一日15時間労働を35年続けた本田宗一郎「世界一でなければ、日本一ではない。」

イラスト by リーディング&カンパニー

日本を代表する経営者と言えば、必ず名前が挙がり、かの孫正義さんも自身が最も好きな起業家だと断言する本田宗一郎は、30分に30回「バカヤロー」と部下を怒鳴り、声よりも先に手が出て、ボルト1本の設計ミスをしただけで2発も殴るような、徹底して仕事には厳しい人でした。(1)(2)

ちょっとでも気にいらないことがあると、工具で従業員の頭を殴って従業員がコブを作るのは当たり前、蹴り飛ばされて半日も動けなかった従業員もいたため、創業時は入社しても3人に2人は数日で逃げ出してしまったそうです。(3)

宗一郎の秘書も多くの人は続きませんでした。何人もの秘書が辞め、事前に道の混み具合を考えず「ただ運転するだけ」のハイヤーの運転手に対しては、「もう来なくていい」と、とにかく叱りつけるなど、現在は20世紀を代表する経営者として語り継がれていますが、まだ駆け出しの頃は好かれるより憎まれた方が多かったのかもしれません。


↑現在、最も尊敬させる経営者は、創業当時、最も嫌われた経営者でもあった。(イラスト by リーディング&カンパニー)

あまりの無茶な暴力に嫌気が指して、暴力を辞めなければ宗一郎のところに自動車の修理は頼まないというお客さんまでいたそうです。

しかし、そんなことはお構いなしの宗一郎は、時にはムチを持って工場を歩き周り、鉄の板で若者を殴り続け、宗一郎に失望して彼のもとを去った者も多くいました。(4)

社長を引退した後もホンダの重役たちを怒鳴りつけ、中には宗一郎に叱られて頭が真っ白になり、カバンを忘れていく人もいたそうです。

後に従業員が、怒鳴り散らすのは「愛のムチでしょう?」と尋ねると、宗一郎は首を横に振って、次のように述べたと言います。(5)

「イヤ、そんな気持ちでやったことはない。本当に憎くてやったんだよ。でもいい製品ができないと思うと、怒鳴らずにはいられなかった。」


「世界一でなければ、日本一ではない」従業員に対しては怒鳴って、殴ぐりまくったが、宗一郎の手や体はそれ以上に傷だらけ。



それに加えて、宗一郎自身の働き方も本当に自分勝手そのものでした。

頭にひらめいたことはすぐ手を通して形にせねば気がすまない性格で、3日、4日寝ずに働いたと思ったら、数日間は工場に姿を見せずに料理屋にいりびたって遊び続け、1945年に日本が戦争に負けると「人間休業」宣言をして、約1年間、本当に何もぜず家でじっとして過ごしました。

「人間休業」の一年間は昼は将棋、夜はドラム缶一本分もの酒を仕入れ、友人を招いて毎日のように騒ぎ続けていたと言います。

奥さんに「草くらい抜いて下さいよ」と言われても一本抜いて、それで終わりという日もあったそうですが、気分が乗らず、全力で仕事ができない時は一切仕事をしないという宗一郎なりの断固たる哲学があったのでしょう。(6)


↑全力で仕事ができない時は一切仕事はしない、名経営者なりの断固たる哲学。

時には、夜な夜なエンジンのことを考えて眠れず、そば屋がチャルメラを鳴らしてやってくると宗一郎はイライラし、奥さんに言いつけてそば屋に走らせ、売っていたそばをすべて買い取らせたこともあったと言います。

とにかく働き方も経営の仕方も無茶苦茶な宗一郎でしたが、「世界一でなければ、日本一ではない」とひたすら言い続け、怒鳴ったり、暴力を振るったとしても、宗一郎自身の顔や体はそれ以上にレース中の事故で傷だらけでした。

左手はハンマーで打たれ過ぎてケガをしていない指がなく、中には取れそうになった指をつないであるものまであったそうで、そういった宗一郎の生き様は自然に共感を呼び起こし、あの人ならついて行きたい、何か一緒にやりたいと思わせる不思議な魅力が宗一郎の中にはあったのでしょう。(7)


↑いくら怒鳴って、暴力をふるっても、宗一郎自身の体はそれ以上に傷だらけ。

ホンダの副社長を勤めた西田通弘さんは「会社を辞めようとしたことは50回ほどある」と述べ、ホンダの会長を勤めた杉浦英男さんもボルト一本の設計ミスで、みんなの前で2発殴られた時は、「辞表を叩きつけてやる!」と宗一郎を睨み返しました。

しかし、その瞬間、宗一郎の目に溢れ出しそうな涙がたまっているのを見るとはっとしてしまい、「本気になっている宗一郎には、やっぱり言い返す気がなくなったですよ」と、宗一郎が亡くなった直後のインタビューで述べています。(8)

からだ中ウンチまみれになってまで、友人の入れ歯を探しに行く宗一郎「この男にはかなわねえと思った。」



ところが、宗一郎は自分が悪いと思えば従業員の前で手をついて土下座し、ホンダ創業15周年には1億円で京都の夜を買い取って、全社員8000人が京都で遊びまくるといった行事を開くなど、技術のスキル以上に喜怒哀楽を常に爆発させ、人間と仕事の本質を本当に深いところから理解した経営者であったことは間違いありません。(9)

外国人が誤って便ツボに入れ歯を落とした時などは、宗一郎は裸になってトイレの奥まで入っていって、入れ歯を取ってきたそうです。


↑糞まみれになってまで入れ歯を取ってきた宗一郎。 (Takeshi KOUNO)

この現場に居合わせた副社長の藤沢武夫さんは「この男にはかなわねえと思った。体がふるえてくるような感じだった。これが私の一生を支配した」と述べており、宗一郎の本当の魅力は、エンジンの音を聞いただけで、どこに異常があるかを見分けるほどのズバ抜けた技術の能力よりも、どこか別のところにあったのでしょう。

後に、藤沢さんは「会社が倒産したら宗一郎を教祖にした宗教をつくる」と言ったこともありましたが、これはあらがち冗談ではなかったのかもしれません。(10)


↑ホンダは技術会社ではなく、宗教としても十分なりたったのかもしれない。

そして、宗一郎はホンダ創業25年の1973年に社長を引退した後、これまでホンダを成長させてくれたすべての従業員に直接会ってお礼が言いたいと、クルマやヘリコプターなどを使って、3年がかりで日本・海外の事業所を回る「握手の旅」を始めました。

ある日、たった5人しか従業員がいない事業所を訪れ、従業員が宗一郎と握手をするために、手についた油を拭こうとすると、宗一郎は構わずその手を握り、自分の鼻を手に近づけてこう言ったそうです。(11)

「いいんだよ。オレは油の匂いが大好きなんだから。」


仕事というものを越えて、人間同士の心が通じ合ったのか、従業員の目からは涙がこぼれ落ち、それを見た宗一郎も泣いたと言います。


↑いいんだよ、オレは油の匂いが大好きなんだから。

「握手の旅」で宗一郎は、どこへ行っても歓迎されました。アメリカのオハイオ州の工場に行って、握手をした時には「家へ帰っても、今夜は手を洗わない。シャワーも浴びない。ミスター本田のぬくみを胸に当てて寝る」と、ある従業員から言われ、宗一郎の存在は常に人々を感激させたと言います。

また、宗一郎は常にホテルで、職業を記入する時には社長ではなく「会社員」と記入して、スタッフ30人と不眠不休で仕事をし、宗一郎の奥さんが夜食のうどんを作って出すと社長の宗一郎は必ず一番後ろに並びます。

「社長、まずはどうぞ」とスタッフに言われても宗一郎は絶対に動かず、その姿を見たスタッフは大いに感動して、仕事への意欲がさらに高まっていったそうです。(12)

42歳から世界一を目指す。年間5500時間(1年間1日も休みなしで、1日15時間)を35年続けた宗一郎。


image_Ian Muttoo_Flickr

宗一郎は42歳という年齢でホンダを起業し、世界一のメーカーになることを本気で目指していたため、成し遂げたい志の大きさと残りの人生の短さに大きなギャップを感じ、「時間との闘い」を自身のライフワークだと考えていました。

時間との厳しい闘いの中で、従業員のミスによって開発の進行が遅れると、どんな言い訳があっても無性に腹を立て、「本気で憎かった」と宗一郎本人も述べていますが、打ち合わせには必ず予定時間より前に到着し、プロジェクトに関しても締め切り間近になると納期をいきなり短縮したりします。

このように、あらゆる危機を意志的に作り出して、従業員に速く仕事を終わらせるための創造力を使わせることで、仕事のスピードを徹底的に上げて、時間との闘いを制していったのです。(13)


↑42歳でホンダを起業した宗一郎にとって、仕事は常に時間との闘いであった。

お金や地位、そして学歴など生まれた家庭によってどうしようもないことはあるが、時間だけはすべての人に対して平等に与えられていると口うるさく言っていた宗一郎は、この「時間」をどう使うかによって人生が決まると考えていたため、動いていない機械があれば、雷を落とし、移動には当時はまだ珍しかったヘリコプターなども頻繁に使って時間の価値を高めていきました。

そして、だれが何と言うおうと企業は「人」だと断言し、人生で唯一限られた時間という資源を有効に使うという意味で、「スピード」とは人間尊重することだとして、次のように述べています。

「日本人は、わりあい時間にルーズである。ぼくはどんな会合でも一分と遅れていったことはない。それはなぜかといば、時間を大事にしているからで ある。ウチがこれだけ伸びたのも、金があって伸びたのでは ない。時間というものをじょうずに使ったから伸びたのだ。」(14)

「工場の能率にしても同じことがいえる。技術的にどうしても解決しなければならないということは、案外少ない。第二義的なことが多い。いちばん大切なことは時間である。倍増産したければ、半分の時間で仕事をすればいいのだから、これはだれにでも分かる。」(15)



↑時間をリスペクトしていない企業は、従業員を人間として尊重していないのと同じである。

そして、42歳という遅いスタートから世界のメーカーになるために、自身も死に物狂いで働くことになりますが、その働きぶりは明らかに異常であり、年間5500時間(1年間1日も休みなしで、1日15時間)を35年続けた宗一郎のあるエピソードをホンダ元社長の入交さんは、こう振り返ります。

「あるとき、本田さんが仕事をしていて、嫁さんが昼飯を持ってきたら、“おい、かあちゃんよ。今日はだれも出てこないがね。従業員はみんな辞めたんかね”と聞いたそうです。嫁さんが、“なに言っているの。今日は正月よ”と言うと、本田さんは“ああそうか”と言って、また仕事を始めたそうです。」


ソフトバンクの後継者には、欧米仕込みのアローラではなく、人間味溢れる本田宗一郎がほしい。



宗一郎は公私混同を一貫して嫌い、自社製品は代金を払って購入、妻でさえ受付で名前を書かなければ社内に入れず、息子は会社に入社させないなど「ケジメある経営」が世の中から高く評価され、それによって多くの人材を集めることができました。

また、「社名に『本田』という名前を入れたのは間違いだった」と語っていますが、ホンダという企業が宗一郎という教祖がいなくなっても、どんどん大きくなって成長していったのは宗一郎と彼の長年のパートナーで副社長でもあった藤沢武夫さんが、創業25周年というタイミングがいい時期に、一緒に退任したことが大きな理由だとも言われています。(16)


↑「ケジメある経営」と経営者としての「引き際」をしっかりと見極めたことが宗一郎なくしてもホンダが成長していった理由。

宗一郎が社長を退任し、亡くなるまでの18年間にホンダは4兆円分成長し、2008年には10兆円近い売上、2016年には14兆円を超える規模までに成長しており、創業者がいなくなった後も、創業者のDNAを引き継ぎ、企業が発展しているという事実は、宗一郎にとっての最大の勲章でしょう。(17)

冒頭で孫正義さんが一番尊敬している経営者は本田宗一郎だと述べましたが、孫さんが自身の後継者として指名し、165億円の高額報酬でソフトバンクにやってきたニケシュ・アローラは宗一郎とは似ても似つかぬ人物でした。


↑165億円の高額報酬と共にソフトバンクにやってきたニケシュ・アローラ。

日本で尊敬される経営者とは宗一郎のようのに、自分が儲けたければ、まずは従業員のために尽くし、そのおこぼれを自分の利益すると考え、食事を取る時でも必ず自分が一番後ろに並ぶといったように、まずは自分の損得勘定は徹底的に無くして、信頼を得ることを第一のステップします。

しかし、グーグルや欧米の企業で経験を積んできたアローラは、幹部との会談で、通訳を通して話そうとすると露骨に嫌な顔をし、ソフトバンクが大株主であるアリババに自身が上級顧問を勤める投資ファンドを通じて投資をして、2015年1月にアリババの業績が悪くなると、その投資ファンドが持つアリババ株45パーセント超を売り抜けたりするなど、「合法だが不適切」だとソフトバンク社内からの印象はあまりよくありませんでした。(18)


↑グローバル・スタンダードのアローラと日本人が本心から求める経営者の姿は明らかにかけ離れていた。 (image_jim212jim_CC)

孫さんがまだ若く、無名だった頃、孫さんは自分が本田宗一郎と同じ歯医者に通っていることを知りました。

何とか知り合いになりたいと考えた孫さんは、宗一郎の誕生日直後に予約を入れてもらうように頼み、歯医者に通っているのにケーキを持って宗一郎の前に現れ、必死にパソコンの卸売りについて話したそうです。

そして、宗一郎が年に一度行っていた「アユ釣りパーティー」に招かれて、宗一郎は「CPUってなんだ」、「それが進化したらどうなるんだ」と孫さんの話を熱心に聞いていたと言います。


↑歯医者で何とか宗一郎と知り合いになろうとした孫正義。

ユーモアのセンスに関しても、孫さんは「髪の毛が後退しているのではない。 私が前進しているのである」と述べ、薄毛を気にしていた宗一郎も「ハゲたのではない。顔が大きくなったのだ」とジョークを言うなど、ユーモアは夢と現実のギャップから生まれる、ユーモアは「心の接着剤」とも言われるように人間性に関しても、お互い共通する部分が多い二人でした。

ところが、孫さんが今までやってきた、自分でモノを発明しなくても、ジョブズなどの天才が作ったものをいち早く”買う”というビジネススタンスは、自分の手で新しいモノを生み出すことを喜びとしていた宗一郎の考えとは明らかに異なっていたとも言えます。


↑今までの孫正義「ジョブズなどの天才が作ったものをいち早く”買う”。」(image_Hamza Butt_CC)

孫さんの社長室長を勤めた嶋聡さんは後継者候補だったアローラが退任し、その一ヶ月後には「たかが3兆円」とイギリスのアームホールディングスを買収したあたりからの孫正義を「孫正義2.0」と位置づけ、これからの「孫正義2.0」は新しいものを自ら生み出すことを喜びとする本田宗一郎の考えに寄っていくだろうと述べています。(19)

最年少で上場、創業数年で◯◯億の売上など、やたらと世の中に話題になる経営者はたくさんいますが、10年、20年、ましてや100年など経てば、日本の歴史の片隅にも残りません。

そう言った意味で、本田宗一郎という人間の存在が人が本当に死ぬ時というのは、息を引きとった時ではなく、「人々に忘れられた時」だと教えてくれているように感じます。

孫さんが宗一郎のように何十年、何百年と語り継がれる経営者になるか、それとも息を引きとった時点で終わる経営者止まりなのか、孫さんの人間味の本領発揮はむしろこれからなのかもしれません。

本田宗一郎は坂本龍馬たちのように、あと100年以上は、日本人の心の中で生き続けていくことでしょう。

参考書籍・引用

1.城山 三郎「本田宗一郎との100時間」PHP研究所 P22、2009年 2.伊丹 敬之「人間の達人 本田宗一郎」PHP研究所、2012年 P109 3.中部 博「定本 本田宗一郎伝―飽くなき挑戦 大いなる勇気」三樹書房、2012年 P106 4.別冊宝島編集部「本田宗一郎という生き方」宝島社、2017年 P82 5.別冊宝島編集部「本田宗一郎という生き方」宝島社、2017年 P84 6.伊丹 敬之「人間の達人 本田宗一郎」PHP研究所、2012年 P269 7.井深大「わが友 本田宗一郎」ゴマブックス株式会社、2015年 Kindle 8.「人間の達人 本田宗一郎」PHP研究所、2012年 P109 9.別冊宝島編集部「本田宗一郎という生き方」宝島社、2017年 P88 10.「定本 本田宗一郎伝―飽くなき挑戦 大いなる勇気」三樹書房、2012年 P208 11.別冊宝島編集部「本田宗一郎という生き方」宝島社、2017年 P47 12.別冊宝島編集部「本田宗一郎という生き方」宝島社、2017年 P100 13.本田 宗一郎「私の手が語る」講談社、1985年 P19 14.片山 修「本田宗一郎からの手紙」PHP研究所、2007年 Kindle 15.本田 宗一郎「ざっくばらん」PHP研究所、2008年 Kindle 16.別冊宝島編集部「本田宗一郎という生き方」宝島社 P103 18.田中 詔一「ホンダの価値観 ――原点から守り続けるDNA」KADOKAWA / 角川書店、2014年 Kindle 17.伊丹 敬之「人間の達人 本田宗一郎」PHP研究所、2012年 P18 18.嶋 聡「孫正義2.0新社長学 IoT時代の新リーダーになる7つの心得」双葉社、2016年 Kindle 19.嶋 聡「孫正義2.0新社長学 IoT時代の新リーダーになる7つの心得」双葉社、2016年 Kindle

/MR_HONDA