確かに岡本太郎さんが言うように、子供が描く絵は自由でのびのびしていて魅力的かもしれないけど、成熟した大人の感情が揺さぶられるかと言われれば、そんなことはない。
それはなぜかというと、子供が持っている自由とは「自分で勝ち取ったもの」ではなく、ただ単に「与えられたもの」で、許された自由の中での表現に魅力はあったとしても、何か人を感情的に動かす力はきっとないのでしょう。
絵でも、文章でも、音楽でも、何でもそうなのだと思いますが、満員電車に乗って、会社の型にはめられて、裏切られて、フラれて、失敗して、傷いて、苦しみながら、自ら掴んだ自由の中で表現する芸術にこそ真の価値があるのだと思う。
そう言った意味で、芸術家やクリエイターは社会に揉まれれば、揉まれるほど、いい作品がつくれるようになるんじゃないか。
真の芸術家とは子供のような無邪気さを維持しつつも、様々な逆境を通じて、力強く成熟された概念を自分の中に染み込ませなければならない。
その概念があってこそ、創作活動ができるのであって、絵も、文章も、音楽も、そして映像も表現方法の一つにすぎないのだから。
やっぱり、自由になりたいと会社を辞めて海外に自分探しに行ったり、型にはめられるのが嫌だとずっとフリーターみたいなことをやっている人に周りを動かすほどの力がないのは、所詮、彼らが持っている表現力というのは、幼稚園児の表現力と変わらないのだろう。
なぜなら、人を感情的に動かす概念は社会の外ではなく、社会の中にあるからだ。
渋谷駅内にある巨大な岡本太郎の絵を見るたびにそう思う。そして、同時に渋谷という街は若者が自由を自らの手で勝ち取る街から、ただ与えられた自由を謳歌する街に変わってきているじゃないかと。
自由という字は、自らに由(よ)ると書きますが、自分で掴み取った自由に由(よ)るのと、与えられた自由に由(よ)るのとでは、その重みが全然違うし、そういったものが芸術やコンテンツの中に生々しく出てくるのではないだろうか。
満員電車が嫌とか言ってないで、一回社会に揉まれてみることで、もっといいものがつくれるようになるんじゃないかな。